konaxyzのブログ

本のおすすめなどをしていきたいです(仮)

『句会入門』長谷川櫂著(講談社)を読んだ

実際の句会の様子を、いわゆる文字起こしした新書。

きわめて実践的な句会の手順が事細かに書かれていたり、実際の講評の部分が収録されている。句作のためにも大いに役に立ちそう。

同人のメンバーによる句に、著者が講評をつける部分がとてもおもしろい。慣れ親しんだメンバーであるのだろう、遠慮なく直截にダメ出しをする。

ビードロに一輪挿の椿かな 二本

(中略)

櫂 ビードロって何?

啓示 ガラスです。

櫂 見たままなんだろうけど、すっきりしてないんだ。おそらく詠み方というよりも素材の問題。ビードロの花瓶に椿なんて悪趣味じゃないか。(pp. 44〜45)

本にするために1年かけて計15回の句会を開いている。春・夏・秋・冬・新春とすべての季節の句会を楽しめる、とても親切なつくり。 

一流の俳人の取り仕切る句会の雰囲気がよく分かる、良書だった。

 

『寺山修司の「牧羊神」時代 青春俳句の日々』松井牧歌著(朝日新聞出版)を読んだ

寺山修司の直接の知人で、書名にある俳句同人誌「牧羊神」を発行していた著者。なので俳句評論ではなく、回想録の側面が強い。

直接やり取りした手紙などが使われており、とても生々しいというか活き活きとした記録。

とはいえ一章を割いて、いくつかの寺山俳句の評論をしているのはさすがに著者自身も俳人であるがゆえか。句のセレクションもちゃんと載っている。

にしても寺山の、高校生俳句コンクールを起ち上げたエピソードはいつ読んでも圧巻だと思う。実現させただけでもすごいのに、それだけでなく選者に揃えたのが不死男、赤黃男、橋本多佳子に三橋鷹女だっていうのだから。

行動力ハンパない人だったのだなと。

高校生時代の寺山の手紙。あどけなさがある。

お元気ですか。

便りないので心配してます。逢いたいんです。

腹をわって未来の話。文学論。女の子のこと。じゃんじゃんしゃべりたい。(p.120)

実際の手紙(もちろん直筆)の写真が載っていたりして、それもいい雰囲気。意外に字が可愛らしかった。 

 

『これが名句だ!』小林恭二著(角川学芸出版)を読んだ

全体として、とても楽しく読めた。

著者は作家らしく、さすがに文章がとんでもなくうまい。それにうまいだけでなく軽妙だ。

句の読み方も自由自在という感じで、俳句評論をいい感じで読み物に落としこんでいるという感じがする。

個人的にはその軽さが物足りないと思ったりはするものの、これはこれで十分楽しめる本ではあった。

俳人の選び方も、本流のちょっと脇に位置するような人を選んでいる感じがしておもしろかった。著者が本当に好きな人を選んでいるのだろう、という感じがする。

俳句に新風が吹くとき 芥川龍之介から寺山修司へ』川名大著(文學の森)を読んだ

前エントリ、前々エントリに比べて、かなりしっかりした俳句評論だった。著者は俳人で研究者らしい。

タイトル通り、どちらかというと俳句史における傍流の俳人を扱った著書。前著に『挑発する俳句 癒やす俳句』という本があるようで、そちらではわりと本流の俳人を扱っている。今度読んでみるつもり。

きわめて精緻な評論という印象。他にも俳句評論(めいた文章)をいくつか読んでみたけど、生半可な書き方ではどうしても印象論に留まってしまいがちなところがある。そんな中、この著者はそれらの文章から一線を画しているように感じた。

個人的に感じたこととしては、俳句というのは短い分インターテクスト性みたいなのが分かりやすくでるのだなあということ。当然といえば当然か。「一文字違えば別の句」と言われるだけある。

極端に短い表現だからこそ生まれる特質。あとがきから印象的だった文を引用する。

曰く、「俳句は瞬間を切取る詩だ」「眼前直覚だ」「日常の些事を掬いあげる大人の文学だ」。これらの言説の背後には、芭蕉の「物の見えたる光」や山本健吉の「時間性の抹殺」や虚子の「花鳥諷詠」などへの誤解があろう。「物の見えたる光」とは斬新で豊かな詩的言語空間の出現に直結するユーレカであり、「時間性の抹殺」とは短小な形式が豊かな時空間を生み出す切れに基づいた重層的な奇形の言語構造であり、「花鳥諷詠」とは現象の奥に自然の摂理を見出すもの。したがって、俳句とは短小ゆえに象徴的に豊かな詩的時空間を生成する逆説的なもの。シャッターチャンスとばかりデジカメでパチパチ撮るようなものではない。彼らは、「写生」や「今・ここ・われ」の超克という尾形仂氏の現代俳句の未来への遺言的言説をも元の木阿弥にした。

 

『寺山修司の青春俳句』酒井弘司著(津軽書房)を読んだ

前エントリと同じく、寺山修司の俳句の解説本。

こちらも著者は俳人らしいけど、前エントリの本に比べて記述はドライで客観的であるような印象を受けた。

修司の全句から100句を選別し、それぞれを時代別(といっても中学、高校の1学年ごとだったりするが)に章立てして解説を付している。1つずつの解説が比較的簡潔にまとまっており、俳句の解説としても参考になりそうでよい。

例によって他の句や短歌、詩などが引用されている。それらを見るにつけても、修司にとって俳句とは(短歌、詩、戯曲なども同様)表現するための一形式に過ぎなかったのだろうという感覚がする。ぼくの印象では、修司個人の世界観が強すぎて、個々のジャンルの持つ形式の枠内に収まらないという感じ。

一方で、修司の俳句や短歌を語る上で見逃せない「盗作」問題もある。個人的な正当か不当かの判断は保留するけど、そうした(自分自身の作品にとどまらない)引用を重ねるほどに作者自身は空虚な存在となる。

強烈な自己、一方で空虚な自己。その二つの間にある逆説的な作者、というのがぼくの個人的な寺山修司像である。

『寺山修司の俳句 マリン・ブルーの青春』吉原文音著(北溟社)を読んだ

修司の俳句をテーマごとに幾つか集め、解説を付した本。

著者もまた俳人だそうで、学術的な著作ではなく修司のエッセイなどからも自由に引用しつつ、それぞれの句を解説して章ごとにまとめている。

全体をとおして著者の修司への強い思い入れが感じられる文章で、やっぱり寺山修司というのはそういう人だったのだなと思わされておもしろい。

にしても、修司の俳句はこういった解説本が書きやすいようにできている感じがする。

ありきたりな言葉だけど、寺山修司は現実と虚構が入り混じった表現を好んでする人だった。彼の俳句は(短歌も同じか)、その奥にいる修司自身の虚実入り混じった心象風景を強く映し出している。そこは汲めども着きぬイメージの世界だ。

一つの句は、その奥にある寺山修司という人間をとおして他のさまざまな作品(俳句のみみならず)とつながっている。その網の目をたどるだけで、すぐにちょっとした解説本がかけてしまうのだろう。

『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』藤田貴大著(白水社)を読んだ

藤田貴大は、演劇界のスターだ。

極めて完成されたスタイルの舞台を作り出すことができる劇作家で、今もっとも注目されている芸術家の一人といってもいいと思う。

この戯曲は岸田國士戯曲賞を受賞した作品で、登場人物や世界を共有する3つの中編が合わさって1冊の戯曲となっている。

叙情的な言葉にあふれ、しかもそれが繰り返されながら変容していくのだから、もうとにかくすごい。

とかなんとか言っておきながら、僕自身は生で見たのは他の人の詩を使った舞台だけで、あとはYouTubeの断片的な映像を見たのみ。そのうち機会があれば行きたいと思ってはいるものの、まだ行けていない状態。

今度野田秀樹の『小指の思い出』を東京でやるみたいで、そこにはこれまたぼくが興味を持っている飴屋法水も出演するようだ。見に行きたいのだけど、ちょっと時間が取れなそうで今回は見送ることになるかもしれない。

戯曲にしても舞台にしても、何となくクローズドすぎる印象を受けたりもするのでそこが引っかかってはいるけれど、生でしっかりした舞台を見ればまた印象も変わるのかもしれない。